中小M&Aの「相場倍率」は、業種ごとのQ1〜Q3レンジとして存在する——前編で立てたこの結論を、本記事は3指標に拡張する。
EV/EBITDA倍率は、黒字企業の営業キャッシュ生成力を分母に置く指標である。それでは、赤字の年があった企業はどうか。資産を多く保有し、利益は薄いが安定している企業はどうか。中小M&Aの実務では、これらの企業も日常的に評価対象になる。
中小企業庁が公開している3指標——EV/EBITDA・PER・PBR——は、それぞれ異なる「分母」を持つ。3つを並べて読むことで、業種ごとの評価軸が初めて立体化する。本記事は、後編として3指標の役割分担と、業種別Q1〜Q3レンジの重ね方を整理する。
この記事の要点
- EV/EBITDA・PER・PBRの3指標は「営業キャッシュ生成力/株主利益/資産」と分母が異なり、業種・財務構造ごとに適する起点指標が変わる
- 中企庁2024年度のサンプル数は EV/EBITDA n=1,987/PER n=2,191/PBR n=2,830 と差があり、必要項目が少ない指標ほどカバレッジが広い構造になっている
- 同じ業種でも指標により位置が変わる(例:医療・福祉は EV/EBITDA中位、PER最下位水準、PBR中位)。1指標だけ見ると業種を見誤る
- 業種別倍率バンドは3指標を重ねると3つの「形」に類型化できる:全指標高(不動産・情報通信)/指標分裂(医療・福祉)/全指標低(製造・建設)
- 業種別の「相場」は単一指標の中央値ではなく、3指標Q1〜Q3レンジの重ね合わせたバンドとして把握される
1. 3指標は何を測っているのか
1.1 EV/EBITDA・PER・PBRの分母の違い
3指標を並べると、何を測っているかが対比で見える。
| 指標 | 分母 | 適用範囲 |
|---|---|---|
| EV/EBITDA | 営業キャッシュ生成力(営業利益+減価償却費) | 黒字企業 |
| PER | 株主帰属の純利益 | 黒字企業 |
| PBR | 純資産(簿価ベース) | 赤字企業を含む |
EV/EBITDAは事業の現金創出力を、PERは株主に帰属する利益を、PBRは資産バッキングを測る。3指標は重なるが同じではない。
1.2 中企庁ツールが3指標を併用する理由
中企庁の株式価値簡易計算ツールは、この3つを利用者に同時に提示する設計をとっている1。1指標ではなく3指標を並べる理由は、業種・財務構造によって適する指標が異なるためである。
利益が安定している業種ではPERが機能する。資産依存度が高い業種ではPBRが機能する。営業キャッシュ生成力が事業価値の本体である業種では EV/EBITDA が機能する。どれか一つに頼ると、業種特性によって過大・過小評価が生じる。
1.3 サンプル数差異が示す「中小M&Aのデータ欠損構造」
中企庁2024年度集計のサンプル数は、3指標で異なる2。
EV/EBITDA n=1,987 / PER n=2,191 / PBR n=2,830
PBRが EV/EBITDAより843件多い。これは偶然ではなく、構造的な理由がある。EV/EBITDAは営業利益・減価償却費の両方が必要、PERは純利益が必要、PBRは純資産だけで算出できる。中小M&Aでは詳細な損益データほど報告が欠けるため、計算に必要な項目が少ない指標ほどサンプルが大きくなる。
PBRが最も広いカバレッジを持つ事実は、中小M&A全体を俯瞰する視点では PBR が起点になりうることを示している。
2. 業種別Q1〜Q3レンジ——3指標の重ね合わせ
2.1 PBR業種別レンジ
PBR全体は中央値1.3、Q1=0.7、Q3=2.5倍である2。業種大分類の主な値は次のとおり。
| 業種 | 中央値 |
|---|---|
| 製造業 | 1.0 |
| 建設業 | 1.1 |
| 医療、福祉 | 1.2 |
| 不動産業、物品賃貸業 | 1.6 |
| 情報通信業 | 2.4 |
業種中分類では、インターネット附随サービス業 中央値7.0倍と印刷・同関連業 中央値0.4倍が両極に立つ2。PBRは業種特性をシンプルに反映する。
2.2 PER業種別レンジ
PER全体は中央値11.7、Q1=5.8、Q3=23.1倍である2。
| 業種 | n | 中央値 |
|---|---|---|
| 医療、福祉 | 175 | 8.8 |
| 生活関連サービス、娯楽 | 76 | 9.8 |
| 製造業 | 385 | 10.7 |
| 建設業 | 389 | 11.3 |
| 情報通信業 | 159 | 13.9 |
| 不動産業、物品賃貸業 | 105 | 23.9 |
医療・福祉が低く出るのはPER特有の現象である。Q1=3.1という極端な数字は、規制業種(特に医療業 n=71、Q1=2.2)の評価圧縮を反映する2。EV/EBITDAでは医療・福祉の中央値は8.5倍と中位だが、PERでは最低水準になる。指標を変えると業種の順位が変わる。
2.3 不動産業の3指標横断での突出
不動産業は3指標すべてで突出する。前編で扱ったEV/EBITDA中央値22.2倍(不動産賃貸業・管理業)に加え、PER中央値32.1倍、PBR中央値1.6倍と、3指標すべてで全体中央値を上回る2。
これは外れ値ではない。安定キャッシュフローと資産バッキングを併せ持つビジネスモデルが、3指標すべての分母に対して高い倍率を許容する構造の現れである。3指標で同方向の動きが確認できることが、業種特性の実在を立証する。
3. 業種別倍率バンドの3つの「形」
3.1 形①——3指標すべて高水準(不動産・情報通信)
不動産業は EV/EBITDA・PER・PBR すべてが全体中央値を上回る。情報通信業も EV/EBITDA中央値9.0倍、PER中央値13.9倍、PBR中央値2.4倍と、3指標すべて上振れする2。
安定収益・資産バッキング型(不動産)と、成長期待・無形資産型(情報通信)は、起点の違いはあるが、3指標すべてが上振れする点で同じ「形」を持つ。
3.2 形②——指標により評価が分かれる(医療・福祉)
医療・福祉は EV/EBITDA中央値8.5倍(中位)、PER中央値8.8倍(最下位水準)、PBR中央値1.2倍(中位)と、指標を変えると評価が大きく変わる。EBITDAベースでは中位、PERベースでは下位、PBRベースでは中位という不均衡が生じる。
これは規制業種の特性である。利益率に規制圧力がかかるためPERは圧縮される一方、設備投資・退職給付引当などEBITDAから差し引かれる項目が大きいためEBITDAは相対的に小さく、結果としてEV/EBITDA倍率は中位に出る。1指標だけ見ると業種を見誤る典型例である。
3.3 形③——3指標すべて低水準(製造・建設)
製造業(EV/EBITDA中央値6.3倍、PER中央値10.7倍、PBR中央値1.0倍)と建設業(同 5.4倍、11.3倍、1.1倍)は、3指標すべてで全体中央値を下回るか同水準に位置する2。
景気感応度の高さと参入障壁の低さが、3指標すべての分母に対して抑制的に働く構造である。
業種別の「相場」は、単一指標の中央値ではなく、3指標のQ1〜Q3レンジを重ね合わせた『バンド』として把握される。前編で示した「Q1〜Q3レンジで読む」の作法は、3指標で重ねることで、業種特性の輪郭を厚く描き出せる。
4. 実務でどう使い分けるか
4.1 業種・財務構造ごとの起点指標
実務では、業種・財務構造に応じて起点とする指標が変わる。黒字企業で利益・キャッシュフローが安定している場合は EV/EBITDA を起点とする。利益が黒字だがキャッシュフローのブレが大きい場合は PER を起点とする。赤字の年がある、または資産型ビジネスである場合は PBR を起点とする。
ただし、起点を決めても3指標すべてで業種別レンジを確認することが、過大・過小評価の予防策として機能する。
4.2 経営者・アドバイザーが交わすべき問い
経営者は、提示された倍率が3指標のうちどれかを確認する。アドバイザーは、案件の業種・財務構造に対して、なぜその指標を起点に選んだかを説明する。前編・後編を通じて示した中企庁データは、この対話の共通土台を提供している。
中央値ではなく業種別Q1〜Q3レンジ、1指標ではなく3指標の重ね合わせ。これが「業種別の相場」を読むときの最低限の作法である。
業種別の相場の輪郭を3指標で描いたあと、次に問われるのは、この相場のなかで実際に提示される倍率の質である。アドバイザーが営業キャッシュフロー、利益、資産のどれを起点に提示したか、なぜその指標を選んだかは、案件ごとの説明責任に直結する。
評価指標の議論は、その先で報酬構造の議論に接続する。倍率を提示する側のインセンティブ構造を抜きに、相場の議論は閉じない。