経営者が事業承継を考え始めたとき、アドバイザーに最初に投げる問いは決まっている。「うちは、いくらですか」——あるいは「うちの業種で、相場はどのくらいですか」である。
この問いに対する答え方は、アドバイザーの力量を映す鏡となる。「相場は5倍から10倍くらいです」と即答する人もいれば、「決算書を見ないと何とも言えません」と濁す人もいる。どちらも誤りではないが、どちらも正確ではない。
中小企業庁が支援機関登録制度を通じて公表している統計データは、この問いに一つの座標を与える。EV/EBITDA倍率の業種別データを精査すると、「相場倍率」と呼ばれるものの輪郭が、想定とは異なる場所に立ち現れる。
本記事は前編として、EV/EBITDA倍率に絞ってこの問いに答える。後編ではPBRとPERを加え、3指標で業種別の相場を立体化する。
この記事の要点
- 全業種のEV/EBITDA中央値7.3倍は印象的だが、Q1〜Q3で3.6倍〜15.5倍と4倍以上の幅を持ち、単一値で「相場」を語ることに無理がある
- 中企庁データは任意報告中心の制度設計により、譲渡側のEV/EBITDA算出が可能な案件は全体の40.2%にとどまる構造的限界がある
- 純資産規模別では「規模による明確な傾向はみられない」(中企庁公式)が、業種大分類11区分では5.1倍(生活関連サービス)〜19.6倍(不動産業)の構造が立ち現れる
- 不動産業の突出は外れ値ではなく業種特性の反映で、後編で扱うPBR・PERでも同じ傾向が再現される
- 「相場」の単位は全業種一律ではなく業種別Q1〜Q3レンジとして存在する。経営者は業種別レンジと案件の財務構造との位置関係を併せて確認すべきである
1. EV/EBITDA倍率とは何の数字か
1.1 営業キャッシュ生成力に対する評価倍率
EV/EBITDA倍率は、企業価値(Enterprise Value、EV)が営業キャッシュ生成力(EBITDA、営業利益+減価償却費)の何年分に相当するかを示す指標である。中小M&Aの実務では、簡易計算式として次の関係が用いられる。
株式価値 = (営業利益+減価償却費)× EV/EBITDA倍率 − (有利子負債 − 現預金)
中企庁が公開している株式価値簡易計算ツールも、この計算式を採用している1。
1.2 中企庁が「年買法」を採用しなかったこと
中企庁の計算ツールが採用したのは、EV/EBITDA法・PER法・PBR法の3つである。業界の実務でしばしば用いられる「年買法」——時価純資産に営業利益の数年分を加算する手法——は、採用されていない1。
公式解説には採否の理由は明記されていない。しかし、中小企業の評価において、営業利益の数年分という発想を、公的なツールが標準として採らなかった事実は重い。営業キャッシュ生成力に「業種別の倍率」を掛けるという、より構造化された方法が選ばれている。
1.3 何を捨て、何を残したか
中企庁ツールは、設計思想上いくつかの簡略化を行っている。非流動性ディスカウントは適用していない。解説本文では30%程度が一般的と注記しているにもかかわらず、ツール側では適用していない1。非支配株主持分の調整も行わない。対象は黒字企業の株式譲渡に限定される1。
ここで重要なのは、これらの簡略化を行ったうえで、結果を中央値ではなくQ1〜Q3の範囲で表示している点である。特定値で「いくらです」と語らせない設計が、ツール全体に貫かれている。
2. 中央値7.3倍の独り歩き
2.1 全体集計の数字
中企庁の集計表は、譲渡側の倍率をQ1(下から25%地点)/中央値(50%地点)/Q3(下から75%地点)の3点で示している。中央値の前後に各25%ずつ、合わせて中央の50%の案件がQ1とQ3の間に収まる構造である。
2024年度の全業種を集計した結果は次のとおりである2。
n=1,987 / Q1=3.6倍 / 中央値=7.3倍 / Q3=15.5倍
「中央値7.3倍」という数字は印象的である。しかし、Q1とQ3の幅は3.6倍から15.5倍——4倍以上の幅がある。
2.2 サンプルカバー率40%という前提
このn=1,987という分母は、譲渡側として報告された案件総数4,940件のうち40.2%にすぎない2。残り59.8%は、EV/EBITDA倍率を算出するに足る財務データが報告されていない。
中企庁データは、補助金交付案件は必須報告、それ以外は任意報告という制度設計をとっている2。中小M&Aの財務データ欠損率の高さは、制度自体が抱える構造的限界である。だからこそ、中央値という単一値で語ることには無理が生じる。
2.3 中央値だけを見ることの危険
実務上、利用者が「相場は7.3倍です」と単一値で受け取ると、大半の案件で実態と乖離することになる。Q1の3.6倍は中央値の半分以下である。Q3の15.5倍は中央値の2倍以上である。
中企庁が中央値を表立たせず、Q1〜Q3レンジで表示している設計は、この乖離リスクへの予防線として理解すべきである。中企庁の集計表自体が、そう語っている。
3. 「規模で決まる」ではなく「業種で決まる」
3.1 純資産規模別では傾向が見えない
中企庁は、EV/EBITDA倍率を譲渡企業の純資産規模で12区分に分けて集計している3。代表値を抜粋すると次のとおりである。
| 純資産規模 | n | 中央値 |
|---|---|---|
| 5百万円未満 | 62 | 10.6 |
| 5千万〜1億 | 382 | 6.9 |
| 1億〜1.5億 | 193 | 6.2 |
| 2億〜3億 | 201 | 5.9 |
| 5億超 | 337 | 7.8 |
中央値は5.9倍から10.6倍の範囲に収まる。規模が大きくなるほど倍率が下がる、または上がる、という単調な傾向は見えない。中企庁公式解説も、このデータについて「規模による明確な傾向はみられない」と明記している3。
3.2 業種大分類で初めて構造が見える
同じデータを業種大分類11区分に組み替えると、景色が変わる2。
| 業種 | n | 中央値 |
|---|---|---|
| 生活関連サービス、娯楽 | 72 | 5.1 |
| 建設業 | 310 | 5.4 |
| 製造業 | 358 | 6.3 |
| 学術研究、専門・技術 | 125 | 6.5 |
| 運輸業、郵便業 | 95 | 7.1 |
| 卸売業、小売業 | 336 | 7.7 |
| サービス業(分類外) | 147 | 7.8 |
| 医療、福祉 | 150 | 8.5 |
| 情報通信業 | 153 | 9.0 |
| 宿泊業、飲食サービス | 72 | 10.3 |
| 不動産業、物品賃貸業 | 107 | 19.6 |
最低値5.1倍と最高値19.6倍の差は約4倍となる。規模軸では見えなかった構造が、業種軸では明確に立ち現れる。
3.3 不動産業という突出値の読み方
不動産業の中央値19.6倍は、他業種から大きく離れている。業種中分類でさらに細かく見ると、不動産賃貸業・管理業(n=57)は中央値22.2倍であり、Q3は45.6倍に達する2。
これは外れ値ではなく、業種特性の反映と読むべきである。安定したキャッシュフローと資産バッキングを持つビジネスモデルは、収益倍率が高く出やすい。後編で扱うPBRやPERでも同じ傾向が再現される。不動産業は3指標すべてで突出する2。
逆に、生活関連サービス・娯楽(中央値5.1倍)や建設業(5.4倍)は低く出る。これらは景気感応度が高く、参入障壁が比較的低く、固定資産依存も限定的である。
業種ごとに、評価倍率の水準は構造的に異なっている。
4. 「相場倍率は存在するか」への答え
4.1 相場の単位は業種別Q1〜Q3レンジである
冒頭の問い——「相場倍率は存在するか」——への本記事の答えは、次のとおりとなる。
全業種を通じた『相場倍率』は存在しない。中央値7.3倍はそれらしく見えるが、Q1〜Q3で4倍以上の幅を持ち、規模では分解できず、業種で初めて構造が見える数字である。
しかし、業種別のQ1〜Q3レンジとしての『相場』は存在する。建設業の中央値5.4倍と不動産業の19.6倍は、別物として扱われるべき数字である。
4.2 経営者が確認すべきこと、アドバイザーが説明すべきこと
経営者は、アドバイザーから「相場は◯倍です」と単一値で示された場合、それが業種別の何のレンジ上の値なのかを確認することが望ましい。アドバイザーは、業種大分類のQ1〜Q3レンジと、案件のEBITDA規模・財務構造との位置関係を併せて説明すべきである。
中企庁データは、この対話の共通土台を提供している。
EV/EBITDA倍率は、黒字企業の営業キャッシュ生成力を分母に置く指標である。赤字企業や、純資産が大きい資産型企業の評価には、PBR(純資産倍率)が必要になる。また、株主帰属の純利益に対する評価倍率としては、PERが用いられる。
3指標を並べて初めて、業種ごとの評価軸が立体化する。